2007年09月24日

070923 伊豆・小室山編

大室山から北東におよそ5㎞。

山麓部の公園やスポーツ施設を縫うように車道が走る。行き止まりに、小室山山頂へのリフト乗り場があった。

辺りは閑散としている。リフトもほとんどが空席だ。山頂からの眺めは絶望的、ということか。

とは言うものの、登らなければ始まらない。

リフトに乗り込む。さて、山頂はどうなっているのか…

左手の斜面に何かが見えた。鬱蒼と茂る木々の間から白い石像物が現れた。鳥居だ。

(゚Д゚≡゚Д゚)!! 

と、鳥居?? 乗り場の裏手、しかも樹林に埋もれるように何故鳥居が??

Σ(゚口゚;

カ、カメラ! しまった、いきなりこんな事件が起きようとは!

慌てて電源を入れる。不覚だった。リフトは容赦なく斜面を登る。

ぎりぎり間に合った。しかし、非常に気になる。後で調べなくては…

考えている内に山頂へ着いた。案の定、濃密なガスが取り巻いている。視界ゼロだ。乗り場の左手に小さな社殿が見えた。

立て看板によれば

宝永2(1705)年、小田原の城主、大久保隠岐守により創建されたらしい。江戸城築城の際、伊豆の石材運搬の安全を祈願して、とのことだが…

寛永13(1636)に江戸城の工事は完了しているらしい。何世代もの前の話だ。それをわざわざ? 何とも合点のいかない話だが…

社殿の正対方位角は約290°

富士山の方向を向いていると言えば言える。

社殿脇の池が気になった。よくよくみると、人工の池だ。ポンプから水が勢いよく出ている。昔枯れてしまったものを復原したのか?

と思ったが、ありえない。山体は軽石の堆積物で覆われている。水が溜まるはずもない。

不意に、斜面の陰から老夫婦が現れた。会話からすると、どうやら登山道が存在するらしい。

見るべき物も他になく、リフトで下に降りた。

鳥居があったのは①の地点。地図によれば、そのあたりから道が延びていることになるが…そんなものは見当たらなかった。

とりあえず、リフト乗り場の人に話を聞いてみた。

おっちゃんの話だと、リフトが出来るまでは斜面の鳥居から登山道が延びていたという。50年前まではその道を使っていたというが… 山頂部の池は40年ほど前に造ったらしい。

駐車場に戻り、どうしたものかと山を眺めた。もう一度鳥居の写真を撮りたいと思ったが、さすがにリフト乗り場の裏である。話をしてくれたおっちゃんはあきらかに怪訝な顔をしていた。突入はためらわれる。

ふと気づいた。

リフト乗り場から針葉樹の帯が延びている。山体は針葉樹と広葉樹で混交しているのに、そこだけ密集している。

日光や箱根の杉並木が脳裏をよぎる。

目の前の針葉樹の帯は登山道に沿って植えられたものではないだろうか。地図の記載とも整合する。

さて、と。

行くしか無くなってきた。そんなテンション。

トイレ脇に舗装道が見える。それが現行の登山道らしい。

道が二手に分かれた。③の地点だろうと思われる。舗装道は点線の方ではなく、朱線の方へ延びている。とりあえず、舗装ルートを選んだ。

道は杉林の中へ延びていた。ヘアピンカーブの所で立ち止まった。この先に鳥居があるハズだ。

迷わず藪に突入した。蜘蛛の巣とヤブ蚊を払いながら、リフトの音がする方へ忍び寄る。

捉えた! が、これ以上は近づけない。辺りを見渡すと踏み跡らしきものが見える。しかしすぐに判別不能になってしまった。

あきらめて舗装路に戻り、山頂への道を辿る。地図からすれば、このまま歩けばどこかでぶつかるはずだ。

いくら登っても旧道との分岐らしきものはない。その代わり、斜面の下側に古びた階段を発見した(②辺りか)。

引き返し、②の地点に戻り、未舗装路の先に進むと、先の階段の下に出た。

おそらく北側の点線が旧道、朱線が現道、南の点線が旧々道、ということになるだろう。

現段階で興味深いのは、社殿建立の経緯と、開発と信仰の関係だろうか。

大室山と小室山を比較しながら検討すると面白いだろう。今後の課題のひとつだ。

次回は伊豆山か真鶴辺りを攻めてみようかと思う。

投稿者 楓岱 : 21:08 | トラックバック

2007年09月23日

070923 伊豆・大室山編 その2

前回に引き続き大室山に行ってきた訳だけれども

とりあえず宿題を片づけて置こう。

南西側の山麓で見かけた鳥居。図面の①の位置にある。

山頂の神社と関係があるのは間違いない。中に足を踏み入れた。石段はすぐに終わり、目の前には大きな楠が聳えていた。

…何。足踏み入れて大丈夫なのか俺?

向こうには登山禁止の看板が見える。行けるとこまで行ってみるか。

これ以上は無理です。ロープ張ってあるし。ただ少なくともこのルートが昔の登山道だったことは確認できた。図面の通りだったわけだ。

気を取り直してリフト乗り場に向かった…のだが

相変わらずカップルだらけ。

如何ともしがたい。一人で来てる俺ってどうなの? 何かすごい切ない気持ちになってしまったのは、天気のせいだね。

自分に言い聞かせながら、リフトに乗ること5分。山頂はガスに包まれていた。視界は悪い。

今回は火口壁に沿って調査を開始した。

確実ではないけれど、登りに入っていたから図面に落とすと、②の辺りになるだろう。8体の地蔵尊が祀られていた。

立て看板によれば

八ヶ岳地蔵尊
海上安全・海難防除・大漁祈願のために漁師によって建立。大室山は漁場選定の目印とされていた。現在の地蔵尊、つまり写真のものは、昭和59年に地元池区民の寄付により再建された。

ちなみに古い地蔵尊はこの奥に安置されていた。

リフト乗り場の対面側が山頂部になる(③の辺り)。ここから北側を眺めると

前回、社殿の正対軸の延長は小室山に繋がるかと思っていた。しかし、こう見てみるとややずれているように思える。小室山との関連は薄いのだろうか。

ただ、基盤岩が露出している所を選んで社殿が建てられたのは間違いないだろう。

さらに歩くと、またも地蔵尊が出現した。おそらく④の位置にあると思われる。登山道の痕跡は見出せなかったのだが…

立て看板によれば

五智如来地蔵尊

寛文の始め(1663)のころの話しだそうな(ということは社殿の建立の9年後ということになるのか)。相州岩村(根府川と真鶴の間の集落)の網元の娘が9歳で身籠もった。その安産を大室山浅間神社に祈願したところ、無事出産した。そのお礼として真鶴石で地蔵尊を造らせ奉納し、現在地に安置された。

そう言えば、社殿の脇にその網元が建立したと思しき小祠があったな…

ということは、大室山の信仰空間の構造は、①④社殿のラインで理解するのが妥当かもしれない。

どのような儀礼が行われているのか。激しく気になる所で、話を小室山に移そう。

投稿者 楓岱 : 22:25 | トラックバック

2007年05月13日

μ73 実踏

地下遺構の痕跡はあるのか・・・

わずかな望みを胸に、私池中が行って参りました。

まず目をつけたのが枡形山の山頂部。以前作った資料から、1947年当時に何かの建造物の痕跡が見える。

もしかして旧軍関係? と思い、今回の調査ではここからスタートした。写真のナンバーはリンク先を参照のこと。


・・・中世の地侍の砦跡だったようで。残念ながら旧軍関係の遺構は全く見当たらなかった。

仕方なく、とぼとぼと尾根筋を専修大の方へ。途中でこのような景色に遭遇した。


専修大の校舎を背に岡本太郎美術館の方を撮影した。47年の写真と現況を見比べてみると、元々は谷戸の最奥部で、地目は田であったことが分かる。現在も田の形が見て取れたが、放棄されている。美術館の敷地だろうと思われるが、かなりの面積が放置されている。今後整備していくのか、それとも・・・

何か放棄しておいた方がよい理由があるのか。例えば危険な穴があるとか・・・


専修大から明治大の方へ向かう途中に出会った川崎市の看板。階段を登ると、ご覧の通り、明治大の圃場になっている。

さてと、これはどういうことかと。

普通に考えれば、大学の通用門が使われなくなったものだろう。しかし、それならば川崎市の看板ではなくて、明治大学の看板が建てられているはずだ。

では元々大学の敷地だったこの階段を、大学が市に寄付したのか。いやいやそれはどうか。この土地を寄付されたところで、公共利用できないではないか。狭隘道路でもあるまいし、ましてや公園に隣接している訳でもない。

ただ、大学の通路として使用されていたことは事実らしい。フェンスの横手には小さな門があったからだ。

意味不明な市有地と明大圃場の開かず門。

この点を結ぶのはやはり旧軍であろう。

元々ここは登戸研究所の通用門があったのではないか。その後敷地は大学に渡り、階段は軍から川崎市に所有が移転したものの、残っていた。それを大学側が利用していたが、何らかの理由で現在は使用されていない。

と、まあこんな所だろう。よってこの階段は旧軍の遺構と考えられる。


この後、明大の敷地をぐるりと周り、戦前から残る道を下ってきたのだが・・・西側斜面のこの物々しさは何なのか。有刺鉄線全開である。大学とは思えないのだが・・・

そんなに不法投棄されるのか。こんな住宅街でか?

明らかにそんな理由ではないだろう。入られると非常にまずい何かが存在していると邪推したくなるではないか!しかも・・・

確か、この先には旧軍の門(おそらく大学の門はそれを再利用している)がある。やはり旧軍関係の遺構が存在するのだろうか。


とまあ、そんなこんなで大学の門まで下ってきたんだけれど、この空き地も一部川崎市の土地であった。

以上、通行可能な道を辿った今回の調査だった訳だが、丘陵頂部にはおそらく大学構内の遺構しか存在しないだろう。

47年の写真からすると、専修大の敷地も登戸研だった可能性はある。ということは

地下壕への坑口がある可能性が高いのは、現況および資料から判断して②と④付近だと思われる。

今後の方針としては、南側の浄水場方面をざっと確認し、大学構内の遺構を目視したい。

後者の計画にはみなさんの参加を希望する。

つーか、今日は我慢したんだ。

※追記 ⑤の写真に映っている黒服の人はセクシー系の美人で非常によかったことを付記しておきたい。

投稿者 楓岱 : 19:33 | トラックバック

2007年05月10日

μ73予備調査 その2

旧陸軍登戸研究所

この遺構が明治大の生田キャンパス内にあるのは知る人ぞ知る有名な話である。

地下遺構は存在しないらしいが、現在の地形図と終戦直後の米軍航空写真を照らし合わせた資料を作ってみた。右下矢印をクリックしてほしい。

次に生田キャンパスのオフィシャルマップをご覧頂きたい。

この中で施設名称が付されていないものがあるのに気づいただろうか?

第一校舎一号館周辺に集中する建物群。

実地踏査はしていないが、おそらくこれが旧軍施設である。

一枚目の図の黄色丸部分が登戸研究所だと思われる。

約11万坪の敷地に1000人の研究所員を動員していたという。

そして赤丸部分がキャンパスマップの位置関係から割り出した、終戦直後の施設と現存する遺構の対応である。

オレンジ線は戦後から現在までほぼその線形を残している道。

以上の資料を基礎にして少し掘り下げてみようかと。

旧軍施設に囲まれるように第一校舎がある、というよりそこを出発点として校舎に番号を振っていったという事実はただの偶然だろうか・・・

投稿者 楓岱 : 23:40 | トラックバック

2007年03月19日

μ73予備調査

廃隧道の調査は何も山間部に限らない。都市部にもそのような遺構は存在するはずだ。

正確には「廃」ではなく、当局の管理下に置かれているのが大部分であろうが。

ともかく、私の担当は都市なので、とりあえず都市部を重点的に調査を開始する。

仕事熱心だ。俺。

部屋の整理は後回しだ。

人員が未だ揃わないので、本件は自分の独断で予備踏査を行った。

場所は東京南部。仮に目標のイニシャルから

本件をμ73と名付ける。

本件の目的はμ73の付近の隧道の有無を確認することである。

070318に南側斜面を踏査。

住宅に覆われ目的遺構は確認されず。目標敷地はフェンスで覆われ進入不可。場所によっては進入は可能であるが、「機械警備」実施との看板あり。

「機械警備」・・・

メカ? 来ちゃうの?

写真撮ろうと思ったが、背中に突き刺さるベランダからのおっさんの視線が痛かったので断念した。

ちなみに、犬にもこれでもかというくらい吠えられた。

何故だ! コンビニの袋をわざとぶらさげて、如何にも休日寝起きの独身男性を演じたというのに!

ともかくも今回の予備調査は不調であった。ちなみに踏査範囲は下図参照。全体の25%は消化したと思われる。

個人的には西側斜面はかなり面白そうな気がする。

以上、続報は追って連絡する。

投稿者 楓岱 : 21:30 | トラックバック