2008年10月12日

ニパーラ

すげー久しぶりに調査ぽいような、結果的に食い倒れ的な休日。ていうか、何言ってんの、俺、何休み気分? 仕事だからこれ、あー、ある意味。

日原。トロッコキターーーーーーーーー。ややブレてんのは仕様です。「三人以上乗るな」のつり橋上から撮影してみた。

そんな感じで、穴だらけだ相変わらず。ごく一部に好評だった音声フラッシュ作ろうと思って音撮りしようとしたら、何やら途中で切れてたっていうのが、微妙に怖え。ていうか、また鹿出やがった。

さて、帰りの車中でちょっとした企画が浮上してそのまま空に帰って行ったのはいい思い出。ってそんな話してたら、猫轢きそうになって涙目。

投稿者 楓岱 : 22:30 | トラックバック

2007年06月06日

0704S計画 付録1 県道288編

やっと完成しました。

一部でご好評頂いておりますフラッシュ版です。

その1は県道288で我々が遭遇した出来事をまとめました。

やや長編ですが。

kara氏に捧げる一品です。

投稿者 楓岱 : 20:36 | トラックバック

2007年06月05日

0706犬越計画 1

6月3日1930 経堂

karaと共にラーメンを食いに行く。

はるばる亭にてワンタン麺を食す予定が、飲み屋と化していたため断念。そのまま英になだれ込む。そしてこってりかためを掻き込む。相変わらずうまい。

明日は仕事だ、朝も早い。車に乗り込む我々。

・・・・・・

同日2200


丹沢である。

日曜の夜に廃隧道調査である。

前々から気になっていた犬越路を見たくなったのだ

karaがね。

ラーメン屋で順番待ちしてたらおもむろに切り出したんだな。

・・・行くしかねえか。

という訳で高速飛ばして丹沢へ。

246の清水橋交差点を北上し、一路峠を目指す。

ダム湖を過ぎ、温泉郷を過ぎると、もはやキャンプ場しかない。

鹿は出る。小動物は沸いてくるような山道である。

林道が近づいてくるにつれ

この手の看板が増え始める。

しかし、ステアを握るkaraのテンションは上がりっぱなしだ。今思えば、途中廃隧道に出会ってしまった(最初の写真)のがトリガーだったんだろう。

ただ・・・肝心の犬越路隧道は

封鎖されてて進めず。

鍵掛かってねえって話だったんだけど、貼り紙によれば

「平成19年5月某日、鍵が壊されたので被害届を松田署に提出。鍵壊すなよ!」

みたいなのがあったと。

kara激怒。

「何やってくれてんの!! ここまで来て隧道見れねえのかよぉぉぉぉぉ!」

と、まあこんな感じで今回は駄目でしたと。夜だったし景色まじわかんね。

ひとつ収穫があったのはこの写真

ゲート直前に現れた木の鳥居。山肌に貼り付くようにそびえている。

何なんだこれは?

鳥居から聖地を拝むという風習はままある。例えば岩手の遠野の例

これは早池峰山を遙拝するための鳥居である。

沖縄などでは、拝所という宗教施設を通して、先祖が移り住んできた島々の方に向かって祈りを捧げる。

この民俗文化を理論的に発展させ、柳田が論じた祖先と山の関係とも絡めながら、神社と聖地の空間的な関係が論じられて来たわけだ。

神社の拝殿に向かって頭を垂れるということは、その先の何かに向かって祈っているのだ、現代人はそうと知らずに。そのように構造化されているのだ。

その何かは、本殿に安置されているご神体であって、ご神体とは聖地そのものを具象化、あるいは偶像化したものだから、結局は拝殿前で祈りを捧げることは、その神社における聖地に祈っていることになる。

古社の中には本殿が無く、拝殿から直接聖地を拝ませるものもある。奈良の大神神社がその例だ。

とまあ、このような視点から神社を空間的に分析するのが池中のメインテーマであるのだが、今回出会った木の鳥居は何を意味しているのだろうか。

山に入っていく林道を跨いでいるわけでもない。それでは山自体を遙拝させるものなのか。

今回の調査ではロケーションが同定できなかったので、次回以降に調査したい。

予想としては丹沢の山岳信仰に関連するか、狩猟に関連するか、はたまた遙か彼方の聖地に祈りを捧げる施設ということが考えられる。

とりあえず以上で。

投稿者 楓岱 : 23:43 | トラックバック

2007年05月05日

0704S計画 エピローグ

時刻は既に4時になろうとしていた。

もはや我々の頭の中には夕飯のことしかない。

特にリョースケ。

S計画が持ち上がった時点で夕飯は決まっていた。

浜松でうなぎ。言い出したのがリョースケだった。

我々も即決だったのだが。

速攻で夏焼集落を後にして、隧道を大嵐へともどる。

往路では気づかなかったが、途中で横穴を発見するも、さすがのRF蒼田も燃料切れであった。

しかも写真がこれしかないときたもんだ。

潜行は断念するも、隧道を抜けて分岐の出口を探そうとしたが・・・

全員ぐったりである。

ここで送水管らしき遺構を発見した。

が、もう限界。早くうなぎを・・・

ということでここからはハイライトというか、駆け足でお送りしたい。というか、私も疲労と空腹でモチベーション大暴落であったから、あまり記憶がないのだ・・・

↑豊根の発電所。さすがにこれは目が覚めた。途中何度意識が飛びかけたか・・・
↓そして対岸にある旧湯の島発電所。リョースケ金色のヘビを踏みかける。
吉と出るか凶と出るか。



↑そして佐久間ダム。人がゴミのようだ。
↓隧道内からアクセスできる展望台から。しかし、もはや頭の中はうなぎである。一人を除いては・・・


↑R288の終点(起点?)。

もういい。

もうごちそうさま。

さあ、いざ浜松へ!

・・・・・・
・・・・・・

いや、まだだ。まだ終わらぬ。ここに来て先生のテンションが異常に上昇している! 他のメンツは冬眠状態だというのにッ

だから・・・

最後の力を振り絞ってッッ

我々はッ

飛龍橋へ向かったのだ!

目の前には巨大な廃隧道。鍵が掛かっているが入れそうだ。しかし、リョースケの

何か気持ちワリイッ

の一声で我々は橋へと向かった。面倒だったのか、それとも他の理由なのかは分からないが、普段言わないような台詞だったので、誰も反対はしなかった。

8㌧もの重量に耐えられる吊り橋なのに、なぜか

「歩行者は橋の真ん中を通行すべし」

???

トンチですか?

明らかに端の方が板が厚くて安心なのだが。

なぜここまで来たかというと、王子製紙の導水管が見れるという話だったのだ。

しかしそれらしき姿は見えない。

我々は橋を渡ってぐったりと腰を下ろした。

先生は颯爽と林道の奥へと去っていく。

「結局一番タフなの先生だな・・・」

しばらく待っても戻ってこない。猛烈な睡魔に襲われたリョースケは仮眠を取るといって車に戻っていった。

彼の姿が見えなくなって、蒼田が腰を上げると、先生が戻ってきた。お目当ての物件はようへきで塗り込められてしまったんではないか、という話だった。

私も重たい腰を上げた。

・・・

こうして微妙な幕切れを迎えた0704S計画。

この後、浜松へ出る途上、私以外のメンツが揃ってUFOを目撃したとか

目的地直前でリョースケがあまりの眠気に暴れ出したとか

鰻屋の女の子が微妙に可愛かったとか

という小話があったりなかったりで、無事に帰京したのだった。

投稿者 楓岱 : 22:40 | トラックバック

0704S計画 大嵐・夏焼

チャージ終了ということで、我々は再びR418で佐久間湖へと戻った。

目指すは大嵐(オオゾレ)である。

佐久間湖の右岸を巻いて走る険道1号を、リョースケは快調に飛ばしていく。若干眠い。

いや、眠い。


この画像はクリックすると音声出るので注意!

左岸には飯田線の橋脚やら隧道が見え隠れする以外、全てが鮮やかな翠で覆われている。

新緑の斜面。エメラルドの湖面。

唯一雲一つない空が、緑の世界を取り巻いている。

そして唐突にそれは現れた。

これは対岸の小和田の集落、といっても一軒しかないんだが、そこに生活物資を搬送するためのケーブルである。

河川の占用許可が無いと設置できない旨が脇に書かれている。

小和田。車ではアクセス不能。飯田線でのみ到達できる陸の孤島。

鉄道の方たちには聖地と言わしめる小和田。我々もアクセスを試みたかったが、今回の目的から外れるということで断念した。

というわけで大嵐駅である。

ついにここまできてしまった。

リアルヘルはここからである。

駅前から湖畔まで斜面を降りる。まずは船着き場を確認である。

桟橋にて。

くそ暑い。すでにぐだぐだ感全開である。

と、その時。

ホームから電車の音が響いてきた。

訳もなくダッシュである。息を切らせて斜面を駆け上がる。

これを逃したら当分拝めない。

飯田線を。

ぎりぎり間に合いました。若干年を感じた・・・

我々は水没隧道群をまず対岸から確認するために、車へと乗り込んだ。

旧富山村の中心部を走り抜け、険道1号を南下する。ちなみに上の写真は村営ガソリンスタンドである。

斜面にへばりつく夏焼の集落を過ぎると、物件は現れた。

愕然とした。

写真を撮る気も失せるほど愕然とした。

普通に水没してるのである。

ちょっと待てと。干上がってるんじゃねえのかと。どーすんだ・・・

と、情報提供者の先生に言えるはずもない。

我々は空き地に車を停めてしばし呆然とした。

しかしである。

我々は期せずして、とてつもない可能性を秘めた遺構に遭遇したのだ。

先生たっての希望もあり、現時点では詳細な情報を提示できないのが残念である。

しかし、この物件もしかしたら、普通に学術レベルに発展するかもしれないのだ。

私、池中の専門領域ともだいぶかぶる。じわじわと興味が沸いてきているのが正直なところだ。

資料の状態如何で明治期の信仰形態や集落間の関係がまず明らかになるだろう。

詳細な調査は先生の独壇場だとして、せっかくなのでこの写真を載せておきたい。

現場斜面を直登しようと試みて断念する蒼田。

・・・

ともあれ我々は再び大嵐に戻った。

結局、直接物件を確認するということになったのだった。

駅から夏焼隧道に向かう途中の旧ホーム遺構である。

とりあえず乗る、リョースケと蒼田。勢い余って崖下にダイブする所だったが・・・

夏焼隧道を通る県道288・・・というか県道、険道という代物ではない。野に帰ろうとしている廃道である。

夏焼までの区間は飯田線の旧線を転用している。

およそ1㎞。出口が見えているのに一向に近づいてこない。長い。

アートっぽい写真で気に入ってるんだけれども、隧道内は蛍光灯が一定の間隔で設置されている。リョースケが歩測したところによれば、ワンスパン37mである。

およそ10分後。我々は夏焼側の坑口に抜けた。

そして、288の本当の姿を目の当たりにした。




もはや説明不要な感がある。

県道にあらじ。

例えセローを投入していたとしても、正直私は走破をためらう。

福島・栃木の県境、田代山林道で遭遇した積雪逆バンク(ガードレールなし)の恐怖が一瞬脳裏を過ぎった。

それはともかくとして、我々は斜面下に目を凝らした。それは確実に存在している。

そしてついに発見した。RF蒼田の出番である。比高12,3m程ある斜面をあっという間に降りていく。

我々は彼の作った道を頼りに湖面へと下った。

これはおそらく夏焼隧道から2番目の隧道であろう。便宜的に第2隧道としておこう。残念ながら半水没していて、これ以上の進入は断念した。

そして振り返れば

来ました!

見にくいかもしれないが、これは完全に干上がっている。

南側坑口から第1隧道への潜行を開始する。

見たところ2割くらいはシルトが堆積しているだろうか。古さを感じさせない色は、おそらく水没時にシルトが付着したためと思われる。

架線支持具と思われる金具も視認できた。

北側坑口は流木でほぼ埋まっており、さながらビーバーの巣を思わせる。そして・・・

絶景である。橋脚の跡が高ポイント!

振り返って気づいたんだが、天井部が剥離寸前だった。

こうして我々は第1隧道を後にして、288へと戻った。


夏焼隧道まで戻った我々は大嵐まで戻らずに、夏焼集落を目指した。

延々と続く坂道と階段。

段々畑には茶が植えられている。


夏焼隧道からおよそ60mほど登った斜面に夏焼集落は立地する。先行したリョースケが農作業中のおばさんと立ち話をしている。

さすが、である。

話に拠れば、植えている作物はジャガイモらしい。言われてみれば、厚ぼったい葉に見覚えがある。

寒暖の差が激しいこの土地にはうってつけだろう。多分自家用。

現在この集落に暮らしているのは2軒のみらしい。

ゆったりとした時間の流れに、我々はしばし体を委ねた。


おばさんに別れを告げると、我々は来た道を引き返した。

ヤドリギに覆われた大木が集落を見守っているかのようだった。

(続く)

投稿者 楓岱 : 11:27 | トラックバック

2007年05月02日

0704S計画 箸休め?

熊肉である。

朝から熊肉である。

・・・・・・・

場所はR418とR151が交差する道の駅「信州新野千石平」。

午前8時過ぎ。

到着するとすでに朝市が始まっていた。

五平餅やアマゴの串焼き。出店のおっちゃんたちも準備に余念がない。

それに心惹かれること大であったが、我々は食堂に向かった。

開店前から、ディスプレーの前に陣取りプレッシャーをかける。

というか、もう飯の事しか頭にねえ。麺類など論外。白飯である。

リョースケはカツ丼にすべきか猪鍋にすべきか悶えている。

蒼田は熊肉しか眼中にないようだ。しかし、1200円という高めの価格設定に頭を抱えている。

私、池中はカレーにしようかと一瞬、ほんの一瞬迷ったが、朝定食に決めた。

500円で鰆の唐揚げは魅力的だ。

リョースケ以外は朝定食に傾いたようだが、蒼田はまだ熊肉に未練があるようだ。

そこに先生が助け船を出した。

「食べきれないなら二人で一品熊肉頼みませんか?」

蒼田即決。

開店と同時に我々は席に着いた。

「今の時間、朝定食しかできないのよ」

おばちゃんの一言にリョースケと蒼田の表情が一瞬固まった。

・・・


ドン

さらにドン!

リョースケのネゴで何とか熊肉と猪鍋を作らせることに成功したのだ。さすがリョースケ。

そして無言で掻き込む我々。

幸せである。

まっこと幸せである。

腹も満ちたことであるし、メインイベント水没隧道群へ!

(続く)

投稿者 楓岱 : 17:59 | トラックバック

2007年05月01日

0704S計画 平岡~鶯巣 廃隧道群

平岡ダムを後にした我々は先生に誘われるまま、平岡の中心部に駒を進めた。

R418に入ったところで、急に先生が車を停めた。

飯田線と平行してR418の旧隧道が走る。左側がその旧隧道、十方橋隧道。この旧隧道はかつて飯田線が通っていたものを国道に転用したものだという。

旧十方橋隧道にかぶりつきの図↓

・・・

さすがに腹が減ってきた。皆のテンションが下がりかけたその時。

平岡発電所出現。

二機のサージタンクが圧巻である。

発電用タービンに向かって、上流のダムから鉄管を通して流れ落ちてくる水が急に止められてしまった場合、鉄管に過剰な圧力がかかり破裂してしまう危険がある。

そこでその水流の逃げ場を作り、ショックを吸収する設備として作られたのがサージタンク。

そして・・・振り返ればそこに廃隧道! 飯田線の旧線跡である。さて、仕事の時間だ。

中に入りました、と。

↑平岡から鶯巣(うぐす)方面の写真。平岡側は水没していたため引き返してきた。朝日が射し込むこの隧道は絶景だ!

そして鶯巣側坑口はすぐ。

で、その先はお約束の

廃橋・・・

さあ、銘版を撮ろう!

急に腹が減ってきたのは気のせいか。いや、気のせいではない。いったん車に戻ろう。

おーし、朝飯だ!

・・・

突然、蒼田が斜面を指さした。

「上が気になる」

廃隧道の「上」を目指して斜面をよじ登る。道は我々の後に出来る。直登なぞ当たり前。

そこにあったのは落石防止の土留めだった。

ん。次いこ。

先ほどの廃橋の先の隧道を抜けた先に掛かる廃橋(落語か)。

これ見たら当然橋脚登るっしょ!?

無論登りましたよ。んで隧道確認!

そして蒼田がまた見つけた。隧道の上部に何かを。

直登。

そして土留。

・・・

↑↓個人的にはこの橋が非常に気に入ったけれども。

さらに鶯巣側に移動すると、現行線と旧線の競演が拝める。さすがにこれは登れない。高いところ無理です・・・

時すでに午前7時半。

さすがに限界である。我々は飯を求めてR418を駆けた。

(まだ続くよ)

投稿者 楓岱 : 21:10 | トラックバック

0704S計画 平岡ダム

夜が明けた。

決して夜明けの写真を撮ろうと思った訳じゃない。

寒くて眠れなかったからだ。

放射冷却全開。

もっと考えておくべきだったのだ。道すがら果樹園で霜よけの火を焚いていたのを・・・

氷点下である。

呼吸器が痛い。せっかく仮眠室常備の道の駅だというのに眠れやしない。

というか、隧道の事しか頭になく寝袋を忘れた私の大失態だけど。

というか、毛布とシート持って来たのはリョースケのみ。後はコートやらカッパを羽織って板の間にごろ寝だ。それすらない私は、トレーナーのみ。

凍死

の二文字が目に浮かんだ。他の利用客の寝袋強奪してやろうかと思うほどの寒さ。

仕方なく車に戻る。最初からこうしとけば良かった思いつつ、暖房全開。そして眠る間もなく夜明けである。

仮眠室のドアから毛布を被った海坊主が現れた。リョースケだ・・・つーか座敷童子・・・

その後に蒼田、先生の二人が続く。

リョースケ曰く

「毛布なんぞ役にたたねえ」

らしい。

調査隊、いきなり全滅である。

午前5時半。出発。完徹の調査が始まった・・・

朝焼けが目に染みる。

のもつかの間、飯田に入ると盆地霧の洗礼を受けた。

視界悪し。が、お構いなくすっ飛ばすリョースケ。

R151を南下し、目指すは平岡ダム。

と、その前に冷気にむしり取られた体力を補填すべく、道の駅「信濃路下條」にピットイン。

・・・

ええ、六時ですよ、朝の。店開いてる訳ねえさ。

先生曰く

「こっちの人は朝早いから・・・」

で一縷の望みを道の駅に託した訳ですが、何か。

思考能力大暴落中ですから。

ちなみにここの道の駅の仮眠室は、畳敷き。サイコーです。要チェックです。


と、言うわけで気を取り直して平岡を目指す。

県道244経由で平岡ダム着。


平岡ダム(ひらおかダム)。

長野県では最南端に位置する水力発電用の重力式コンクリートダムで、その高さは戦前に建設・計画された天竜川水系のダムの中では最大の62.5メートル。

ダムに付設する平岡発電所は最大出力10万1,000キロワット。天竜川水系の一般水力発電の中では規模が大きい。

福澤桃介によって手掛けられた天竜川の水力電源開発事業は、1935年(昭和10年)の泰阜ダム完成によって本格的なダム式発電所建設へと発展していった。天竜川電力(後に矢作水力電気と統合)は泰阜ダム下流の平岡地点にダムを建設し、発電を行う計画を1938年(昭和13年)に着手した。

この間にも電力の国家統制策が進み矢作水力電気は解散、日本発送電株式会社によって事業は継承され建設は継続された。折りしも太平洋戦争に突入した時期であり、中国・朝鮮半島の人々や敵対する連合国軍の捕虜を強制的に、それも非人道的な方法で建設工事に使役したという負の歴史を持っている。

とまあ、前説はこの程度で、朝飯前に調査である。仕事熱心な我々。

とりあえず潜行である。池中が先陣をきり、それに先生が続く。

ダムからの風景上流側。いい天気だ。未だかつて無い最高のコンディション!

そして下流側。重力式の美しい曲線。

ダムを渡った反対側には、作業用の通路が設けられているが、今回はここまで。

我々は平岡の中心部に向かった。

(続くなり)

投稿者 楓岱 : 19:23 | トラックバック

2007年04月30日

0704S計画 プロローグ

07年4月28日午後11時。東京の空気は、夕立ですっかり冷え切っていた。

佐久間ダム。長野・愛知・静岡の県境に位置し、戦後復興の象徴とも言われる人造湖である。

彼の地には数々の遺構が眠っているというのだ。

ダム建設に伴い水没した村落や飯田線の遺構、険道288号などなど。

今回参加できなかった石井、そしてkarabinerの無念さを胸に、我々は一路目的地を目指した。

ステアリングを握るのはリョースケ。

初参加ながらそのポテンシャルは驚異的である。元高校球児の動体視力と反射神経は侮れない。愛車エアウェイブを駆使し、東北の酷道を制覇し続けてきた、狭隘峠道のスペシャリストである。今回の調査におけるMVPと言っていい。

ゲストとして迎えたのはスズメ氏。都立大に籍を移して以後3年間、天竜川中流域を調査してきた男。そのマニアックな情報は質量ともに我々を圧倒する。本調査の影の立て役者である。いつしか我々は敬意を込めて彼を「先生」と呼んでいた。

そして、ルートファインダー蒼田と池中の4人を乗せたエアウェイブは中央道を疾走する。

諏訪から県道14号で南下し、羽場から伊那西部広域農道を使い、道の駅「花の里いいじま」に辿り着いたのは午前3時を少しまわっていた。

雲一つない空。月が本当にきれいだった。

そしてこの状況が後に悲劇を呼ぶ。

(続くよ)

投稿者 楓岱 : 13:59 | トラックバック

2007年04月14日

吹上隧道群070408 その4 明治隧道2&小括

切り通しを後にした私の胸に渦巻いていたのは、明治隧道で遭遇した

に対する疑念だった。

話を少し前に戻そう。

明治隧道の坑口にたどり着いた我々を迎えたのは、隧道内から湧いてくる音だった。

最初は新隧道を行き交う自動車かバイクの排気音だと思っていた。

しかし、その考えはすぐに打ち消された。

暗闇の向こう、柔らかな午後の光の手前。薄やみの底から、正に

湧いてくる

その音。

機械的な音ではなく、なにかの鼓動を感じさせる鳴き声のように感じた。少なくとも私には。

そしてそれは私だけの感覚ではなかった。

錯覚か? と思った瞬間、皆同時に顔を見合わせていた。

それぞれの表情から、錯覚ではなさそうな事は明らかだった。

「何の音だろう」

誰ともなく口にした。野犬、隧道の軋み、水滴、排気音、……考えられることは全て吐き出した。

排気音は真っ先に否定された。それならば、トンネル内ではなく尾根を越えてもっと広範囲に響いてきそうに思われた。その音は隧道内だけに響いているのだから。

半身を隧道内に潜り込ませた我々の耳に、聞き慣れた音が響いてきた。天井から滴る水音である。それとは全く関係なく、例の音は隧道内に谺している。これで水滴の可能性も否定された訳だ。

隧道を囲んでいる地盤の軋みの線も否定できなかったが、それも否定された。二歩三歩奥へ進みかけた我々の脇を通り過ぎて、その音が背後にまわったのだ。

もう一度言おう。音が背後にまわったのである。

行く手と背後をライトで照らす。そこには隧道の内壁と地面だけがあった。

それしか無かった。

我々は軽いパニックに陥った。全く理解を超えている。そして急遽エスケープしたのだ。纏わりついてくる音を振り切って、我々は状況を整理した。

というより、不可解な現象に現実的な対象を当てはめたかった。そして導きだされた答えが

野犬

である。

仮定とはいえ、不可解な現象が縁取られると、人間はその形に添って対策を練ろうとする。不安を解消しようとする。

成木側の坑口で我々は野犬の撃退法を話し合った。そして沢の直登を開始したのだ。

向こう側の坑口に野犬が屯している。その現実的な答えが妥当ならば、切り通しを確認して成木側に引き返すのが正解だ。

しかし我々は峠を越えた。

言い聞かせていただけだったのだ。それは野犬の鳴き声だと。

我々の行動はひとつの答えを示していた。それは別の何かだと。

その何かに吸い寄せられるように、峠道を下った。
 

吹上は著名な都市伝説の舞台である。

曰く「明治隧道付近にかつてあった民家で一家惨殺事件があり、それにまつわる現象が起きる。そして訪れた人間は必ず事故にあう」

そしてその民家跡地が

この廃屋だと言われている。幾度もメディアで取り上げられているので、ご存知の方もおられるだろう。

が、我々の興味は…というより、私が気になっていたのは、例の音の正体である。

廃屋から10mほどであろうか、黒沢側の坑口はあった。野犬の姿は見当たらない。私は隧道に引き寄せられていた。

例の音は間断なく隧道内から聞こえてくる。私が振り向くと他のメンバーはうなづいた。そしてkarabinerが言った。

「ここまで来たら行くしかねーよ。駆け抜ければいい」

正直驚いた。蒼田ではなく、karabinerの口からこの言葉が出るとは思いもしなかった。その言葉に蒼田はうなづくと、2人は私を残して隧道内に姿を消した。慌てて2人を追いかける。

例の音に混じって我々の足音が坑内に響く。音はやむ気配がない。坑内全体から降り注いでくるその音の中、3分の1ほど進んだ時だった。大きな音が右の背後で響いた。

「ここだ!」

私はつい声を上げていた。先を歩いていた2人が私の元に戻ってきた。

ライトの先に浮かび上がってきたのは…

なんとも拍子抜けする答えに、我々のテンションは急上昇。

現金なものだ。

ついさっきまで戦々恐々としていた姿は、一体どこにいったのか。いつの間にか、小さな鳴き声は現金な闖入者の無駄な熱気にあてられて鳴りを潜めてしまっていた。

落ち着いて見てみると、この隧道は美しい。坑内中央部はレンガ巻きから素堀へと変貌する。

素堀の内壁と

石組みの内壁、そして

レンガ巻きへ。様々な表情をこの短い隧道は凝縮させているのだ。このレポートを書いていて、改めて美しさを認識した。

竹林の斜面にレンガの外構が映える。この素晴らしい隧道に感謝しつつ、我々は昭和隧道を眺めながら帰路についた。


最後に吹上のルート図を載せつつ、青梅市長の談話とともに吹上隧道群のレポを締めたいと思う。

オレンジ色が推測ながら江戸期の峠越えのルートである。緑が明治道、青が昭和、赤が現道となる。
少々訓練を要するが、立体視して頂けると高低差がある程度実感されるかと思う。

広報おうめ 平成15年6月号に青梅市長の談話が掲載されている。

同一個所での四代にわたる「吹上峠みち」は、道の博物館ともいわれております。青梅の歴史、道路や交通の歴史を知るうえで貴重であり、文化遺産として保護し、活用していきたいと思います。

この人隧道マニアなのか? と思うようなコメントである。

ただひとつ言わせてもらえれば、この美しい隧道群を整備するのではなく、このままの姿を保護していって欲しい。それを願う次第である。

投稿者 楓岱 : 23:31 | コメント (1) | トラックバック

2007年04月12日

吹上隧道群070408 その3 「文政の切通し」

ここからは主任に代わりkarabinerがお送りします。

吹上隧道070408その2でも一部登場した「文政の切通し」。
諸事情により成木側明治隧道抗門付近からのアプローチとなった。



それらしい路面は隧道の上方に気配を感じた。
勘を頼りに我らがルートファインダー蒼田氏が名も無き沢の直登を開始する。
彼のルートファインディング術は素晴しく、こういったアプローチが不鮮明な場合は後進のメンバーへの手助けにもなる。



そして、いきなり切通しである。


なぜか!?


アクロバチックな登りに加え発見した路面も獣道。
写真を撮ってる余裕なんかナカタヨ・・・
(karabinerは高所恐怖症で右側崖は特に苦手)


申し訳ないので振り返って1枚。


文政の切通しの歴史は古く、その名の通り開削は文政11年(1828年)。
当時の成木街道は成木で産出する石灰を江戸に運ぶ為の道で、輸送力アップのためにこの切通しを設けたそうである。
当時は成木往還と呼ばれ現在都市部では青梅街道と名を変えている。



切通しを見渡してみると現在でも人の手が入っているようだ。
恐らく林業関係や山菜採りで入山する人が多いのであろう。
実際成木側とは裏腹に黒沢側では歩きやすい道へと変化を遂げる。



この新しい標識?には我々も辟易した。



小休止の後、黒沢側へと下りを開始。
突然の分岐も直感的に左を選択。
写真ではわかりにくいが恐らく右は作業林道だろう。



よく踏みしめられた小道を黙々と下る。
適度に刈り払いが行われているようで、江戸の道も平成の世で姿そのまま?活用されているのだと実感する。



右側には掘割の先にうっすらと明治隧道黒沢側の抗門が見える。
明治隧道のアプローチは成木側に比べ黒沢側のほうがだいぶ幅が広い。
成木側は昭和隧道を掘る上での地形改変があったのだろうか。
成木側明治隧道へのアプローチルートに良く似た道が黒沢側では江戸道である。
(という事は成木側でみた石垣は江戸期の物か!?)



暖冬の影響であろうか、緑が鮮やかである。
完全にピクニックだな。
若いカップルや老夫婦が「コンニチワー」とすれ違っても、別段驚きもしない、そんな状況。



しかしこのような窮屈な道を石灰を背負って行き来したとは・・・
もしや荷車も通したのであろうか?
どちらにしろ難所であったはずだ。
効率化という名の酷な労働が遠い昔にもあったかと思うと、つくづく日本人というヤツは・・・



なんて考えていたら、道無ぐね?
最後の所だけ、路面が消えている。
いや、うっすらあるか?
明治道は直ぐ目の前なのに!



エイヤーと下り振り返りの1枚。
九十九折れとなっていた、と思う。
難なく路面がわかった貴方は明日から廃道歩きができますよ。



明治道に戻ってきた。

この後、再度明治隧道に突入するのだが。
そこで見た物とは!?

その4に続く。

投稿者 karabiner : 22:57 | トラックバック

吹上隧道群070408 その2「明治隧道1」

明治37(1904)年、東京初の道路トンネルが開通した。

吹上隧道(明治)である。

成木側の斜面はここ最近、人手が入っていないのだろう。ごらんの通り、杉の倒木が道を塞いでいる。

さらにアプローチの途中にはこのようなガリーにも出会った。ほとんど省みられる事なく、この旧道は静かに眠っている。

延長112m、幅員3.3m、天井の高さ2.8m。

明治の隧道は、こじんまりとした石組みのアーチを苔むした煉瓦が固めている。

当然抗内へ潜行する予定だった。

しかし、である。

午後2時。丑三つ時の真反対の時刻である。我々は予期せぬ事態に遭遇した。

いや、

予期はしていた。

だが、我々は渦巻く疑念に現実的な答えをあてがい、隧道内に足を踏み入れた。

この写真を撮るだけで精一杯だった。我々は急遽切り通しの探索に予定を変更して、成木側にエスケープしたのだ。

その3に続く。

投稿者 楓岱 : 21:02 | トラックバック

2007年04月11日

吹上隧道群070408 その1「昭和隧道」

07年4月8日午前10時 二子玉川。

我々は奥多摩に向けて出発した。

目標は吹上隧道群。

・・・・・・

午前11時30分。

多摩川を遡上し、国道411経由で青梅に辿り着いた。

参加者は池中、karabiner、そして初お目見えの蒼田の計3人。

コンビニで昼食を掻き込む。お約束のカップ麺が六腑に染みる。

青梅駅を過ぎ、小曽木街道を北上し、成木街道に入る。

ほどなく目標は、我々に姿を見せた。

平成隧道(新吹上隧道)は、平成5(1993)年竣工。延長604m。車道幅員7m、歩道幅員1.5m、天井の高さ6.3m。

黒沢側坑口から成木側に向け約33m下るため、成木側のアプローチは不要となっている。

橙光色の口がスピードの乗ったバイクや車を飲み込んでは吐き出していく。

我々は新隧道の手前で旧道へ入り、車を降りた。

車止めの向こうに暗闇が待っていた。

昭和隧道(吹上隧道)  昭和28(1953)年竣工  延長245m 幅員5.5m、天井の高さ4.8m。

石組の抗門が我々を出迎えてくれた。銘版もはっきりと目視できる。

随道内はナトリウムランプが点灯しているものの、明かりがなければ様子は窺いがたい。コンクリ巻きの内壁は排気ガスの染みが浮き出ていた。

昭和隧道を抜け、昭和34年に植樹された桜並木のある成木側のアプローチに至る。

明治隧道は昭和隧道のさらに上にある。我々は成木側からアプローチを試みた。

幅半間(約90cm)ほどであろうか。路肩に注意しながら隧道を目指す。

昭和隧道の直上。それは姿を現した。

その2へ続く…

投稿者 楓岱 : 23:21 | コメント (1) | トラックバック

2007年04月10日

日原調査

おいおい内容は書き足すとして、とりあえずハイライトのフラッシュをアップしておく。


(この記事は編集中です)

投稿者 楓岱 : 00:38 | コメント (2) | トラックバック