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2007年05月13日

μ73 実踏

地下遺構の痕跡はあるのか・・・

わずかな望みを胸に、私池中が行って参りました。

まず目をつけたのが枡形山の山頂部。以前作った資料から、1947年当時に何かの建造物の痕跡が見える。

もしかして旧軍関係? と思い、今回の調査ではここからスタートした。写真のナンバーはリンク先を参照のこと。


・・・中世の地侍の砦跡だったようで。残念ながら旧軍関係の遺構は全く見当たらなかった。

仕方なく、とぼとぼと尾根筋を専修大の方へ。途中でこのような景色に遭遇した。


専修大の校舎を背に岡本太郎美術館の方を撮影した。47年の写真と現況を見比べてみると、元々は谷戸の最奥部で、地目は田であったことが分かる。現在も田の形が見て取れたが、放棄されている。美術館の敷地だろうと思われるが、かなりの面積が放置されている。今後整備していくのか、それとも・・・

何か放棄しておいた方がよい理由があるのか。例えば危険な穴があるとか・・・


専修大から明治大の方へ向かう途中に出会った川崎市の看板。階段を登ると、ご覧の通り、明治大の圃場になっている。

さてと、これはどういうことかと。

普通に考えれば、大学の通用門が使われなくなったものだろう。しかし、それならば川崎市の看板ではなくて、明治大学の看板が建てられているはずだ。

では元々大学の敷地だったこの階段を、大学が市に寄付したのか。いやいやそれはどうか。この土地を寄付されたところで、公共利用できないではないか。狭隘道路でもあるまいし、ましてや公園に隣接している訳でもない。

ただ、大学の通路として使用されていたことは事実らしい。フェンスの横手には小さな門があったからだ。

意味不明な市有地と明大圃場の開かず門。

この点を結ぶのはやはり旧軍であろう。

元々ここは登戸研究所の通用門があったのではないか。その後敷地は大学に渡り、階段は軍から川崎市に所有が移転したものの、残っていた。それを大学側が利用していたが、何らかの理由で現在は使用されていない。

と、まあこんな所だろう。よってこの階段は旧軍の遺構と考えられる。


この後、明大の敷地をぐるりと周り、戦前から残る道を下ってきたのだが・・・西側斜面のこの物々しさは何なのか。有刺鉄線全開である。大学とは思えないのだが・・・

そんなに不法投棄されるのか。こんな住宅街でか?

明らかにそんな理由ではないだろう。入られると非常にまずい何かが存在していると邪推したくなるではないか!しかも・・・

確か、この先には旧軍の門(おそらく大学の門はそれを再利用している)がある。やはり旧軍関係の遺構が存在するのだろうか。


とまあ、そんなこんなで大学の門まで下ってきたんだけれど、この空き地も一部川崎市の土地であった。

以上、通行可能な道を辿った今回の調査だった訳だが、丘陵頂部にはおそらく大学構内の遺構しか存在しないだろう。

47年の写真からすると、専修大の敷地も登戸研だった可能性はある。ということは

地下壕への坑口がある可能性が高いのは、現況および資料から判断して②と④付近だと思われる。

今後の方針としては、南側の浄水場方面をざっと確認し、大学構内の遺構を目視したい。

後者の計画にはみなさんの参加を希望する。

つーか、今日は我慢したんだ。

※追記 ⑤の写真に映っている黒服の人はセクシー系の美人で非常によかったことを付記しておきたい。

投稿者 楓岱 : 19:33 | トラックバック

2007年05月10日

μ73予備調査 その2

旧陸軍登戸研究所

この遺構が明治大の生田キャンパス内にあるのは知る人ぞ知る有名な話である。

地下遺構は存在しないらしいが、現在の地形図と終戦直後の米軍航空写真を照らし合わせた資料を作ってみた。右下矢印をクリックしてほしい。

次に生田キャンパスのオフィシャルマップをご覧頂きたい。

この中で施設名称が付されていないものがあるのに気づいただろうか?

第一校舎一号館周辺に集中する建物群。

実地踏査はしていないが、おそらくこれが旧軍施設である。

一枚目の図の黄色丸部分が登戸研究所だと思われる。

約11万坪の敷地に1000人の研究所員を動員していたという。

そして赤丸部分がキャンパスマップの位置関係から割り出した、終戦直後の施設と現存する遺構の対応である。

オレンジ線は戦後から現在までほぼその線形を残している道。

以上の資料を基礎にして少し掘り下げてみようかと。

旧軍施設に囲まれるように第一校舎がある、というよりそこを出発点として校舎に番号を振っていったという事実はただの偶然だろうか・・・

投稿者 楓岱 : 23:40 | トラックバック

2007年05月05日

0704S計画 エピローグ

時刻は既に4時になろうとしていた。

もはや我々の頭の中には夕飯のことしかない。

特にリョースケ。

S計画が持ち上がった時点で夕飯は決まっていた。

浜松でうなぎ。言い出したのがリョースケだった。

我々も即決だったのだが。

速攻で夏焼集落を後にして、隧道を大嵐へともどる。

往路では気づかなかったが、途中で横穴を発見するも、さすがのRF蒼田も燃料切れであった。

しかも写真がこれしかないときたもんだ。

潜行は断念するも、隧道を抜けて分岐の出口を探そうとしたが・・・

全員ぐったりである。

ここで送水管らしき遺構を発見した。

が、もう限界。早くうなぎを・・・

ということでここからはハイライトというか、駆け足でお送りしたい。というか、私も疲労と空腹でモチベーション大暴落であったから、あまり記憶がないのだ・・・

↑豊根の発電所。さすがにこれは目が覚めた。途中何度意識が飛びかけたか・・・
↓そして対岸にある旧湯の島発電所。リョースケ金色のヘビを踏みかける。
吉と出るか凶と出るか。



↑そして佐久間ダム。人がゴミのようだ。
↓隧道内からアクセスできる展望台から。しかし、もはや頭の中はうなぎである。一人を除いては・・・


↑R288の終点(起点?)。

もういい。

もうごちそうさま。

さあ、いざ浜松へ!

・・・・・・
・・・・・・

いや、まだだ。まだ終わらぬ。ここに来て先生のテンションが異常に上昇している! 他のメンツは冬眠状態だというのにッ

だから・・・

最後の力を振り絞ってッッ

我々はッ

飛龍橋へ向かったのだ!

目の前には巨大な廃隧道。鍵が掛かっているが入れそうだ。しかし、リョースケの

何か気持ちワリイッ

の一声で我々は橋へと向かった。面倒だったのか、それとも他の理由なのかは分からないが、普段言わないような台詞だったので、誰も反対はしなかった。

8㌧もの重量に耐えられる吊り橋なのに、なぜか

「歩行者は橋の真ん中を通行すべし」

???

トンチですか?

明らかに端の方が板が厚くて安心なのだが。

なぜここまで来たかというと、王子製紙の導水管が見れるという話だったのだ。

しかしそれらしき姿は見えない。

我々は橋を渡ってぐったりと腰を下ろした。

先生は颯爽と林道の奥へと去っていく。

「結局一番タフなの先生だな・・・」

しばらく待っても戻ってこない。猛烈な睡魔に襲われたリョースケは仮眠を取るといって車に戻っていった。

彼の姿が見えなくなって、蒼田が腰を上げると、先生が戻ってきた。お目当ての物件はようへきで塗り込められてしまったんではないか、という話だった。

私も重たい腰を上げた。

・・・

こうして微妙な幕切れを迎えた0704S計画。

この後、浜松へ出る途上、私以外のメンツが揃ってUFOを目撃したとか

目的地直前でリョースケがあまりの眠気に暴れ出したとか

鰻屋の女の子が微妙に可愛かったとか

という小話があったりなかったりで、無事に帰京したのだった。

投稿者 楓岱 : 22:40 | トラックバック

0704S計画 大嵐・夏焼

チャージ終了ということで、我々は再びR418で佐久間湖へと戻った。

目指すは大嵐(オオゾレ)である。

佐久間湖の右岸を巻いて走る険道1号を、リョースケは快調に飛ばしていく。若干眠い。

いや、眠い。


この画像はクリックすると音声出るので注意!

左岸には飯田線の橋脚やら隧道が見え隠れする以外、全てが鮮やかな翠で覆われている。

新緑の斜面。エメラルドの湖面。

唯一雲一つない空が、緑の世界を取り巻いている。

そして唐突にそれは現れた。

これは対岸の小和田の集落、といっても一軒しかないんだが、そこに生活物資を搬送するためのケーブルである。

河川の占用許可が無いと設置できない旨が脇に書かれている。

小和田。車ではアクセス不能。飯田線でのみ到達できる陸の孤島。

鉄道の方たちには聖地と言わしめる小和田。我々もアクセスを試みたかったが、今回の目的から外れるということで断念した。

というわけで大嵐駅である。

ついにここまできてしまった。

リアルヘルはここからである。

駅前から湖畔まで斜面を降りる。まずは船着き場を確認である。

桟橋にて。

くそ暑い。すでにぐだぐだ感全開である。

と、その時。

ホームから電車の音が響いてきた。

訳もなくダッシュである。息を切らせて斜面を駆け上がる。

これを逃したら当分拝めない。

飯田線を。

ぎりぎり間に合いました。若干年を感じた・・・

我々は水没隧道群をまず対岸から確認するために、車へと乗り込んだ。

旧富山村の中心部を走り抜け、険道1号を南下する。ちなみに上の写真は村営ガソリンスタンドである。

斜面にへばりつく夏焼の集落を過ぎると、物件は現れた。

愕然とした。

写真を撮る気も失せるほど愕然とした。

普通に水没してるのである。

ちょっと待てと。干上がってるんじゃねえのかと。どーすんだ・・・

と、情報提供者の先生に言えるはずもない。

我々は空き地に車を停めてしばし呆然とした。

しかしである。

我々は期せずして、とてつもない可能性を秘めた遺構に遭遇したのだ。

先生たっての希望もあり、現時点では詳細な情報を提示できないのが残念である。

しかし、この物件もしかしたら、普通に学術レベルに発展するかもしれないのだ。

私、池中の専門領域ともだいぶかぶる。じわじわと興味が沸いてきているのが正直なところだ。

資料の状態如何で明治期の信仰形態や集落間の関係がまず明らかになるだろう。

詳細な調査は先生の独壇場だとして、せっかくなのでこの写真を載せておきたい。

現場斜面を直登しようと試みて断念する蒼田。

・・・

ともあれ我々は再び大嵐に戻った。

結局、直接物件を確認するということになったのだった。

駅から夏焼隧道に向かう途中の旧ホーム遺構である。

とりあえず乗る、リョースケと蒼田。勢い余って崖下にダイブする所だったが・・・

夏焼隧道を通る県道288・・・というか県道、険道という代物ではない。野に帰ろうとしている廃道である。

夏焼までの区間は飯田線の旧線を転用している。

およそ1㎞。出口が見えているのに一向に近づいてこない。長い。

アートっぽい写真で気に入ってるんだけれども、隧道内は蛍光灯が一定の間隔で設置されている。リョースケが歩測したところによれば、ワンスパン37mである。

およそ10分後。我々は夏焼側の坑口に抜けた。

そして、288の本当の姿を目の当たりにした。




もはや説明不要な感がある。

県道にあらじ。

例えセローを投入していたとしても、正直私は走破をためらう。

福島・栃木の県境、田代山林道で遭遇した積雪逆バンク(ガードレールなし)の恐怖が一瞬脳裏を過ぎった。

それはともかくとして、我々は斜面下に目を凝らした。それは確実に存在している。

そしてついに発見した。RF蒼田の出番である。比高12,3m程ある斜面をあっという間に降りていく。

我々は彼の作った道を頼りに湖面へと下った。

これはおそらく夏焼隧道から2番目の隧道であろう。便宜的に第2隧道としておこう。残念ながら半水没していて、これ以上の進入は断念した。

そして振り返れば

来ました!

見にくいかもしれないが、これは完全に干上がっている。

南側坑口から第1隧道への潜行を開始する。

見たところ2割くらいはシルトが堆積しているだろうか。古さを感じさせない色は、おそらく水没時にシルトが付着したためと思われる。

架線支持具と思われる金具も視認できた。

北側坑口は流木でほぼ埋まっており、さながらビーバーの巣を思わせる。そして・・・

絶景である。橋脚の跡が高ポイント!

振り返って気づいたんだが、天井部が剥離寸前だった。

こうして我々は第1隧道を後にして、288へと戻った。


夏焼隧道まで戻った我々は大嵐まで戻らずに、夏焼集落を目指した。

延々と続く坂道と階段。

段々畑には茶が植えられている。


夏焼隧道からおよそ60mほど登った斜面に夏焼集落は立地する。先行したリョースケが農作業中のおばさんと立ち話をしている。

さすが、である。

話に拠れば、植えている作物はジャガイモらしい。言われてみれば、厚ぼったい葉に見覚えがある。

寒暖の差が激しいこの土地にはうってつけだろう。多分自家用。

現在この集落に暮らしているのは2軒のみらしい。

ゆったりとした時間の流れに、我々はしばし体を委ねた。


おばさんに別れを告げると、我々は来た道を引き返した。

ヤドリギに覆われた大木が集落を見守っているかのようだった。

(続く)

投稿者 楓岱 : 11:27 | トラックバック

2007年05月02日

0704S計画 箸休め?

熊肉である。

朝から熊肉である。

・・・・・・・

場所はR418とR151が交差する道の駅「信州新野千石平」。

午前8時過ぎ。

到着するとすでに朝市が始まっていた。

五平餅やアマゴの串焼き。出店のおっちゃんたちも準備に余念がない。

それに心惹かれること大であったが、我々は食堂に向かった。

開店前から、ディスプレーの前に陣取りプレッシャーをかける。

というか、もう飯の事しか頭にねえ。麺類など論外。白飯である。

リョースケはカツ丼にすべきか猪鍋にすべきか悶えている。

蒼田は熊肉しか眼中にないようだ。しかし、1200円という高めの価格設定に頭を抱えている。

私、池中はカレーにしようかと一瞬、ほんの一瞬迷ったが、朝定食に決めた。

500円で鰆の唐揚げは魅力的だ。

リョースケ以外は朝定食に傾いたようだが、蒼田はまだ熊肉に未練があるようだ。

そこに先生が助け船を出した。

「食べきれないなら二人で一品熊肉頼みませんか?」

蒼田即決。

開店と同時に我々は席に着いた。

「今の時間、朝定食しかできないのよ」

おばちゃんの一言にリョースケと蒼田の表情が一瞬固まった。

・・・


ドン

さらにドン!

リョースケのネゴで何とか熊肉と猪鍋を作らせることに成功したのだ。さすがリョースケ。

そして無言で掻き込む我々。

幸せである。

まっこと幸せである。

腹も満ちたことであるし、メインイベント水没隧道群へ!

(続く)

投稿者 楓岱 : 17:59 | トラックバック

2007年05月01日

0704S計画 平岡~鶯巣 廃隧道群

平岡ダムを後にした我々は先生に誘われるまま、平岡の中心部に駒を進めた。

R418に入ったところで、急に先生が車を停めた。

飯田線と平行してR418の旧隧道が走る。左側がその旧隧道、十方橋隧道。この旧隧道はかつて飯田線が通っていたものを国道に転用したものだという。

旧十方橋隧道にかぶりつきの図↓

・・・

さすがに腹が減ってきた。皆のテンションが下がりかけたその時。

平岡発電所出現。

二機のサージタンクが圧巻である。

発電用タービンに向かって、上流のダムから鉄管を通して流れ落ちてくる水が急に止められてしまった場合、鉄管に過剰な圧力がかかり破裂してしまう危険がある。

そこでその水流の逃げ場を作り、ショックを吸収する設備として作られたのがサージタンク。

そして・・・振り返ればそこに廃隧道! 飯田線の旧線跡である。さて、仕事の時間だ。

中に入りました、と。

↑平岡から鶯巣(うぐす)方面の写真。平岡側は水没していたため引き返してきた。朝日が射し込むこの隧道は絶景だ!

そして鶯巣側坑口はすぐ。

で、その先はお約束の

廃橋・・・

さあ、銘版を撮ろう!

急に腹が減ってきたのは気のせいか。いや、気のせいではない。いったん車に戻ろう。

おーし、朝飯だ!

・・・

突然、蒼田が斜面を指さした。

「上が気になる」

廃隧道の「上」を目指して斜面をよじ登る。道は我々の後に出来る。直登なぞ当たり前。

そこにあったのは落石防止の土留めだった。

ん。次いこ。

先ほどの廃橋の先の隧道を抜けた先に掛かる廃橋(落語か)。

これ見たら当然橋脚登るっしょ!?

無論登りましたよ。んで隧道確認!

そして蒼田がまた見つけた。隧道の上部に何かを。

直登。

そして土留。

・・・

↑↓個人的にはこの橋が非常に気に入ったけれども。

さらに鶯巣側に移動すると、現行線と旧線の競演が拝める。さすがにこれは登れない。高いところ無理です・・・

時すでに午前7時半。

さすがに限界である。我々は飯を求めてR418を駆けた。

(まだ続くよ)

投稿者 楓岱 : 21:10 | トラックバック

0704S計画 平岡ダム

夜が明けた。

決して夜明けの写真を撮ろうと思った訳じゃない。

寒くて眠れなかったからだ。

放射冷却全開。

もっと考えておくべきだったのだ。道すがら果樹園で霜よけの火を焚いていたのを・・・

氷点下である。

呼吸器が痛い。せっかく仮眠室常備の道の駅だというのに眠れやしない。

というか、隧道の事しか頭になく寝袋を忘れた私の大失態だけど。

というか、毛布とシート持って来たのはリョースケのみ。後はコートやらカッパを羽織って板の間にごろ寝だ。それすらない私は、トレーナーのみ。

凍死

の二文字が目に浮かんだ。他の利用客の寝袋強奪してやろうかと思うほどの寒さ。

仕方なく車に戻る。最初からこうしとけば良かった思いつつ、暖房全開。そして眠る間もなく夜明けである。

仮眠室のドアから毛布を被った海坊主が現れた。リョースケだ・・・つーか座敷童子・・・

その後に蒼田、先生の二人が続く。

リョースケ曰く

「毛布なんぞ役にたたねえ」

らしい。

調査隊、いきなり全滅である。

午前5時半。出発。完徹の調査が始まった・・・

朝焼けが目に染みる。

のもつかの間、飯田に入ると盆地霧の洗礼を受けた。

視界悪し。が、お構いなくすっ飛ばすリョースケ。

R151を南下し、目指すは平岡ダム。

と、その前に冷気にむしり取られた体力を補填すべく、道の駅「信濃路下條」にピットイン。

・・・

ええ、六時ですよ、朝の。店開いてる訳ねえさ。

先生曰く

「こっちの人は朝早いから・・・」

で一縷の望みを道の駅に託した訳ですが、何か。

思考能力大暴落中ですから。

ちなみにここの道の駅の仮眠室は、畳敷き。サイコーです。要チェックです。


と、言うわけで気を取り直して平岡を目指す。

県道244経由で平岡ダム着。


平岡ダム(ひらおかダム)。

長野県では最南端に位置する水力発電用の重力式コンクリートダムで、その高さは戦前に建設・計画された天竜川水系のダムの中では最大の62.5メートル。

ダムに付設する平岡発電所は最大出力10万1,000キロワット。天竜川水系の一般水力発電の中では規模が大きい。

福澤桃介によって手掛けられた天竜川の水力電源開発事業は、1935年(昭和10年)の泰阜ダム完成によって本格的なダム式発電所建設へと発展していった。天竜川電力(後に矢作水力電気と統合)は泰阜ダム下流の平岡地点にダムを建設し、発電を行う計画を1938年(昭和13年)に着手した。

この間にも電力の国家統制策が進み矢作水力電気は解散、日本発送電株式会社によって事業は継承され建設は継続された。折りしも太平洋戦争に突入した時期であり、中国・朝鮮半島の人々や敵対する連合国軍の捕虜を強制的に、それも非人道的な方法で建設工事に使役したという負の歴史を持っている。

とまあ、前説はこの程度で、朝飯前に調査である。仕事熱心な我々。

とりあえず潜行である。池中が先陣をきり、それに先生が続く。

ダムからの風景上流側。いい天気だ。未だかつて無い最高のコンディション!

そして下流側。重力式の美しい曲線。

ダムを渡った反対側には、作業用の通路が設けられているが、今回はここまで。

我々は平岡の中心部に向かった。

(続くなり)

投稿者 楓岱 : 19:23 | トラックバック